迷子

迷子になるために、散歩に出た。
まだ歩いたことのない道を選んでどんどん歩く。
この街にはまだ知り合いもほとんどいないので、誰も私のことを知らない。
誰も。
だから私は、この瞬間、どこにも誰ともつながっていない。
 
1月の午後の空気は冷たい。
右手の中で、もうずっと使っている携帯電話を確める。
お昼過ぎに送ったメールの返信はまだ来ない。
いろいろ忙しいのだろうとか考えてみる。
さっき送った文面におかしなところがなかったかどうか、頭の中でなぞる。
大丈夫。大丈夫。
何度言い聞かせても怖くなってきて、まだ歩いたことのない道をどんどん歩き続ける。
 
国道から横道に入ってみる。
静かすぎる住宅街を、ブーツのかかとをこつこつ鳴らして歩く。
どの家もきれいで、大きくて、家族そろって幸せそうに見える。
ひとりなのは私だけ。
 
迷子になった。
どこの道をどう行けば知っている道に出られるのか全然わからない。
途方に暮れた私の横を3台の自転車がゆっくりと通り過ぎていく。
父親と幼い兄ともっと幼い妹。
絵に描いたような幸せ。
私はひとりで途方に暮れる。
 
すぐ脇の家の生垣から、猫が現れた。
つやつやの毛並みのトラ猫。首には赤いリボンにつけた鈴。
迷うことなくまっすぐに私に向かってきて、ブーツの足に体をこすりつけてきた。
手袋をはずしてそっとなでてみる。
あったかい。
今は、ひとりと一匹。
 
トラ猫と別れてまた歩きだす。
手袋の中の手のひらにはまだぬくもりが残っていて、その手でしっかりと携帯電話を握って歩く。
1月の夕暮れは早い。
自分の影を見ながらこつこつ歩く。
マフラーにあごを埋めて、少しだけ足早になる。
 
あ。
ふるえた。携帯電話。
 
無意識に立ち止まる。二つ折りの白い携帯電話を開く。
来た。返信。
ちょっと泣いた。
 
それからすぐに、知っている道にぶつかった。
私はもう迷子ではなくて、ひとりでもない。